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    <title>京都山科観光プロジェクト [ en ]</title>
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    <updated>2010-11-29T08:43:00Z</updated>
    <subtitle>清水焼と京都仏具の伝統技術に今日的なデザインの息吹を注ぎこんだおもてなしのテーブルウェア。京都山科から、テーブルウェアの新創作スタイル「en」をご提案します。</subtitle>
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    <title>山科気になる心霊ゾーン</title>
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    <published>2011-07-19T02:42:17Z</published>
    <updated>2011-07-19T11:07:14Z</updated>

    <summary>暑い夜。窓を開けて寝ようとするも、入ってくるのは生温かい湿気まじりの風。幽霊が真横で寝そべっているのではないかとふと思えたり。夏の夜を涼しく過ごすには、ちょっとした怪談話でも役に立つ。今回は、あまり表に出ない山科の心霊ゾーンをご紹介。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>東山霊域の古株、旭稲荷神社</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg01.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>山科近辺の心霊ゾーンと聞いてまず誰もが思い浮かべるのが、五条トンネルと並走して東山を貫く歩道のトンネル花山トンネルだろう。車で走り抜けても相当な長さのトンネルを徒歩で通り抜けるのだから、その暗さと雰囲気、昔から語りつがれる幽霊遭遇の噂とで、心拍数が上がるのは当然。電気が灯っていたところで、怖さもかえって増す。　さらにこの山の上にはお焼き場、京都市中央斎場がある。加えて東本願寺の東山浄苑納骨堂がある。同じ山並みの少し北には、巨大な護摩焚きを行う謎めいた宗教祭事で知られる阿含宗の総本山があり、平安時代に都の守り神として立ち姿の武士象が埋められたという将軍塚もすぐそばだ。その北、三条方面へ至る場所には粟田口刑場跡付近に解体すらされないリゾートプールの跡地があり、そこで泳ぐことを想像しただけでもぞっとするような場所。つくづくバブル期の人々には見えていなかった、史上に渦巻くぬぐい去れない悲惨なものが、人の繁栄の根底で、いつの世も混沌と漂っているのを垣間見せてくれる。平安時代の昔から、鳥辺野、華頂と称された風葬の葬場の一帯とも重なるこの山沿いに走るのが東山ドライブウェイだ。夏ぐらいは弔いの気持ちで走るのもよかろうが、よけいなことは考えず、さわやかな山緑の風を感じる方が懸命だろう。人の生死の営みの中で、限りなく死の世界に近い風をいつもさらさらと吹かせてきた、涼しさ満点のゾーンだ。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg02.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>その一番北側に位置する中央斎場の東、五条トンネルを抜けた山科側にあるのが旭稲荷神社だ。五条通からは徒歩で昇る山間の階段しかなく、車では、裏の住宅街に停めて同じく山道を昇る。５分くらい上れば真っ赤に塗り直された社に辿りつくが、ここは稲荷神社。そのご神体は人々が感じた神々の魂そのものをお祀りする「お山」と呼ばれる石碑群である。社の右側に添って、苔の緑が生い茂る山道が続く。やがて竹林となり、どちらかといえば、涼しい風の吹き抜けるさわやかな場所だ。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg03.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>竹林が大きく京都側にカーブしたあたりにお山群はある。細長い石碑にそれぞれ神々の名前を刻み込んだものが竹林の斜面を切り崩して不気味に連なり立つ。その一帯の異様な感じは、知る人ぞ知る未知の力を思わせる。あまり知られていないにもかかわらず、いつの時代か、ここになにかの力を感じて多くの人々が神様を祀ったのだ。江戸元禄の時代には稲荷信仰が大変大流行りし、伏見稲荷や花山稲荷などの参拝者も増えたようだが、この場所の記録は知られてはいない。ここへ行くと一層、東山の霊気が身近に感じられるような気がしてならない。無惨な死者なものとは少し角度の違う、未来永劫の力をもった死者の魂たちが地中からわき出しているかのような、そんなふうな場所に感じられる。一度、訪れられてみてはいかがだろう。</p>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>四ノ宮発、人康親王怨霊説</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg04.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>京阪電車山科駅の一つ東の駅、四ノ宮一帯も、心霊ゾーンとして数えられることが時折ある。個人的には私の一番大好きな場所なので、あまり、悪いイメージは持ってもらいたくないのだが、江戸時代にはたくさんの琵琶法師がこの四ノ宮に集まって琵琶を弾じ、その祖と仰いだ人康親王の崇敬と鎮魂を祈ったという土地柄。琵琶法師、平家物語、怨霊鎮魂という連想がしっくりきてしまう。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg05.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>その場所には今も琵琶琴元祖四ノ宮大明神という今にもつぶれそうな祠が立っており、近辺を買い取った住宅業者はこの社の存在を知らずに購入し、今はその処遇に困り果て、なおざりになっているらしい。とはいえ、弦楽器を習っている人などにとっては、正真正銘の専門の神様なので、参ればきっと腕が上がることだろう。今後も忘れ去られることなく、弦楽器の神様として崇めたい場所の一つだ。祠の横には「お足摺の池」というのがあり、東海道線の整備で水量は激減したが、今でもほんの少し水が湧き出している。平安時代に目が見えなくなって、宮中を追われ、この地に隠棲した人康親王が、悔しさのあまり、足を地面にこすりつけたところ泉が沸き出した、という伝説にちなむ泉だ。周囲には産地の違う庭石がいくつも置かれ、３本の大楠とともに独特な雰囲気を醸し出している。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg06.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>東海道沿いの徳林庵にも、この人康親王の供養塔と称される石碑がある。この辺りの旧家から出た文献などでは、この供養塔が建てられたのは、もともと別の場所にあった人康親王の霊龜石（墓石のようなもの）の上に、知らずに民家を建てたところ、そこに住んだ人が目を患い気が狂って走り回ったというような言い伝えがあったそうだ。人々は人康親王の祟りを恐れ、供養塔を建てて祀ったのだ。<br />
この人康親王にまつわるスポットは諸羽神社にもある。琵琶石と呼ばれる石がそれで、その横には磐座が祀られている。この神社は本殿のまわりをぐるり一周できる造りになっているのも珍しい。その本殿の北西背後に井戸があり、そこに石が配されている。仁明天皇の第四皇子である人康親王が28歳で病を煩いこの諸羽神社一帯の御所平と呼ばれる土地に山荘を開いて晩年を過ごしていたのだという。管弦にすぐれ、この石の上に座って琵琶を弾いたというが、一昔前には、その右側にある磐座を「琵琶石」と呼んでいた歴史もあるので、ほんとうのところはよくわからない。この周辺には山荘の庭石であったであろう巨石が、諸羽神社周辺や四ノ宮大明神など、ここそこに残るので、本当に弾いていた琵琶石がどれだったのか、訪れた人の霊感で探ってみるのも面白そうだ。<br />
人康親王がなぜ病気で目を患ったのかは知る由もないが、時代は藤原良房、基経親子が文徳や清和といった自分たちと血縁の濃い天皇を立てたまさにその時代。人康親王の娘さんの一人が基経に嫁いでいて、繁栄した藤原氏に彼の血が流れていることも興味深いが、将来有望な親王として宮中に育った人康親王が、なにかしら屈辱的な事件に巻き込まれ、山科へ隠棲する身となったことに変わりはない。この界隈を歩くと今も、彼の悲痛の叫びがこだましてくるようだ。</p>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>古来からの霊山、音羽山</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg07.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg07.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>東山に多くのお寺が築かれ、今も霊域として多くの人々が訪れるが、その最初に築かれた清水寺の発祥の起源になっているのが、山科盆地東側にそびえる音羽山である。現在はハイキングコースとしても人気のある登山道で、入り口にはミステリアスな「蛇の足」なるものがぶら下がっている。これは、その山麓、小山の集落に鎌倉時代から伝わる奇祭「二の講」という神事の一端で、毎年二月九日に山の神様である大蛇をもち米のワラで作って村に祀る。その足の一本をぶら下げたものだ。この音羽山には人を食い散らす大蛇がいて、それを内海浪介景忠という武士が見事退治したといい、登山途中にはその蛇が最後のとどめを刺された場所に供養塔として大蛇塚が築かれている。ふもとの神事はこの蛇の霊、山の神様の霊をなぐさめるために行われ、鎌倉時代からずっと、現在まで毎年行われている。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg08.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg08.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>また、清水寺縁起で知られる、坂上田村麻呂が身ごもった妻の病気を直そうと鹿の角を求めて入った山もこの音羽山だ。そのとき、修行中の延鎮と出会い、殺生をいさめられ、その教えを有り難く思った田村麻呂は、延鎮に帰依し、彼の為に都に近い山際に寺を建てた。それが清水寺だ。延鎮が修行していたのは、「音羽の滝」で、清水寺境内に有名なものがあるが、本当の清流の「音羽の滝」は山科音羽山にある。音羽山はその山麓にある牛尾観音法厳寺の寺伝によると、紀元前29年という相当古くから山岳信仰者の間で聖地として信仰されてきた場所で、延鎮や彼が心の師と仰いでいた行叡も、この音羽山に籠り、修行をしていたという。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol012_subimg09.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol012_subimg09.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>延鎮がこの山へやって来たいきさつも、また霊的である。奈良にいた延鎮は、夢で行叡が修行する滝の風景を見る。その場所をインスピレーションのままに探し当てるべく奈良街道を北上して、この音羽山に迷い込む。そこに、金色に光る音羽の滝を発見し、そこで夢の人物、行叡に出会うも、彼の姿は一瞬にして煙と消えてしまう。行叡というのは、仙人さながらの過去の行者で、もはやこの世にはいない存在。この山に籠り、一念の魂となって、延鎮をはるばる奈良からこの地へ呼んだのだ。なんとも壮大なストーリーで、わくわくしてしまう。その後、延鎮はいつか自分の寺を持ちたいと思いながらその山で何十年も修行を続け、そんな折、坂上田村麻呂と出会ったのだ。さわやかな清流を遡って、涼しい風を感じながら牛尾観音に参れば、地道な努力の末の大逆転の勝利が約束されているかもしれない。</p>
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<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
</div>]]>
        
    </content>
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    <title>山科蘊蓄散歩</title>
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    <published>2011-06-09T02:26:11Z</published>
    <updated>2011-07-19T11:07:47Z</updated>

    <summary>春の長雨が尾を引いたように梅雨と重なった今年。外に出歩くのもおっくうな日々も去り、ようやく初夏の日差しがまぶしい頃となりました。山科を散策するなら、それなりの蘊蓄を携えて、
誇らしげに歩いてみたいものです。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>山科蘊蓄のいっぱいつまった冊子「東西南北」</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg01.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>この早春、区役所が区民ボランティアと一緒に、山科のとある4カ所に案内板を立てたそうです。京都新聞でも紹介されましたし、区役所のホームページや、山科区内の地下鉄の駅にも設置場所を記した案内板がつけられています。この４つの案内板というのは、昨年春に発行された「区民が選んだ魅力を訪ねて　京都山科　東西南北」という山科の蘊蓄を道筋や川筋、テーマごとにまとめた冊子の中から、特に後世に伝えていきたい項目として選ばれたものだそうです。<br />
「東西南北」には、住んでいてもなかなか知り得ないことこまかな情報がイラスト入りでどっさり載っています。例えば旧東海道の歴史的な建造物や記念碑がどこにどんなふうに存在しているか。また渋谷街道の本当の古い道がどこを通っていて、どんな見どころあるか。そのほか、明治時代には、現在のJR線が山科の真ん中を横切っていたというその証拠やルートなども紹介されています。マニアックなところでは愛宕常夜塔と呼ばれる、江戸時代からある行灯が山科区内のどこにあるかなど、山科好きにはたまらない情報が、それぞれわかりやすく記してあります。区役所で手に入るそうなので、山科散策のお供としてぜひご活用いただきたいと思います。（筆者はイラストを担当）</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg02.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>その中からよりすぐられた情報となると非常に興味がわきます。ですが、石碑や看板というものは、興味があってその場所に行けば、目にとまり感慨深さも増すかもしれませんが、日常の忙しいなかで、道行く人々の足を止めるほどに効力があるかと申せば、ほとんどの人が知らずに行き過ぎてしまうことの方が多いと思います。せっかく区役所や心ある区民ボランティアの方々が建てた看板です。地域の人々にも見過ごされ、いつのまにかサビサビになってしまった。なんてことにならないように、いろいろな方面でのPRが大事。今回、設置された場所すべてに行ってみましたが、いずれもみんな、事前に知識があって知っていなければ見過ごすようなところばかりでした。下の写真のように実際の物と案内板が離れていて見にくいカ所もあります。ゆえに、今回は、ことこまかに「ここにあるよ」と、４カ所についてレポートしたいと思います。みなさんも機会があればぜひ、足を運んでみてください。</p>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>トンネル試作物と芝町遺跡</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg03.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>私の幼い頃から存在していて、鬼ごっこやかくれんぼをして遊んだ記憶がありますが、そういった歴史的な価値のある遺構とはまったく知りませんでした。以前、疏水蘊蓄の達人といえる中西一彌氏の本作りをお手伝いした折に、詳しい説明を受け、新たな発見に心躍りました。中西さんの説明では、明治23年にできた疏水だけでは水量が確保できず、明治45年、その北側に主に飲料水用として水質保全の意味も含め、全地下トンネルの第2疏水が建設されましたが、そのトンネルの土管の上側半分の試作物、ということでした。約2mあるかないかの幅の土管の屋根を何百個も列ねて、地下水路を完成させたのですから、すごいものです。普段は地下にあって一切気に留めることなどありませんが、散策途中にふとその現物が展示してあるとなると、近くへ寄って直に触れてみて、人知れず飲み水を運ぶ水路があることを、改めて実感することができます。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg04.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>二つ目は芝町遺跡の案内板です。山科には縄文時代や弥生時代から人の生活した跡がみてとれる遺跡がいくつか発掘されています。その中で最も滋賀県に近い、追分と呼ばれる地域に広がるのがこの芝町遺跡です。追分は、旧東海道と旧奈良街道の合流する部分にあたり、古くから人の行き来が盛んで、今でもその両筋沿いには街道沿いの旧古民家の様相を残す風情が色濃く残っています。山科区側の町名でいえば、四ノ宮芝畑町、四ノ宮奈良野町、音羽平林町、音羽珍事町、小山神無森町にかけての地域で縄文土器や須恵器などが出土したそうです。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg05.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>案内板のある場所は、音羽平林町にあるお旅所への道筋、大きな古民家の壁の角に設置されています。この道筋を上ったお旅所は、大きな木の梢の下に神様が宿るといわれる磐座が祀られ、１０月第3土曜の神輿担ぎの際に、岩屋神社と諸羽神社の神輿が立寄り、その日だけは多くの人々でにぎわう場所となっています。このあたりは逢坂山と音羽山の峡谷を抜けてくる水脈の扇状地として形づくられた経緯があります。水の流れがあり、そういった緩やかな傾斜をもった平野部は人が暮らしやすい場所だったのでしょう。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg06.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>縄文時代や弥生時代から暮らし始めた人の集落は、奈良、平安時代の頃からは全国をつなぐ主要な街道の交差点として繁栄していきました。時代は移り変わり、現在の人の往来は高速道路の京都東インターチェンジへと、旅の風情も手段も変わってしまいましたが、かつての街道沿いのにぎわいは、この周辺の大きな屋敷を壁伝いに歩くと少し偲ぶことができます。山科ではもうほとんど街道沿いの古民家を見ることができなくなっています。最後の砦ともいうこのあたりの風情は、区民や役所の力を結集して、何としても残していきたいものです。</p>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>旧東海道線線路下トンネル跡と中臣遺跡</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg07.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg07.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>追分から奈良街道に沿って南下し、途中から高速道路沿いを奈良街道とほぼ平行して南下する道筋を行くと、大宅丹田という新幹線の大津とをつなぐトンネル出口の真上を通ります。そこからは西南を望む山科盆地の眺めがすばらしく、新幹線の鉄道写真の撮影スポットとしても有名な場所です。そこから、さらに南下すると、西側に妙見寺というお寺が見えてきます。かつてご利益めぐりが盛んであった江戸時代には、目の病に効く妙見菩薩がいらっしゃる寺として有名で、そのすぐ東側に今も高速道路の裏側にひっそりとある天神社とあわせて、非常に人気のある観光スポットでした。今も「妙見道」という言葉をよく耳にするのは、このお寺への参道として、たくさんの人々が利用した由緒ある旧街道が、今もちゃんと残っているからです。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg08.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg08.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>写真は、ちょうど妙見寺の辻から真っすぐ西へと続く妙見道を見下ろしたものです。電柱の手前、妙見寺側の壁に設置されているのが「旧東海道線（引き揚げ線）線路下トンネル跡」の案内板です。この妙見道を挟んで南側の鳥居の背後にある築山のその裏手奥に煉瓦積みのトンネルが塞がれたような跡が残っています。それほど大きくもなく、ずいぶん入り組んだ場所にあるためわかりにくいですが、この上を旧東海道線の列車の引き上げ線が通っていたそうです。この辺りは非常に勾配がきつく、上り列車の方が七分も余計に時間を要したといいます。その際の時間調整をする信号所が設けられ、待機する引き上げ線が取り付けられていたそうです。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg09.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg09.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>当時の東海道線はここから現在の高速道路のルートを通って小野、勧修寺方面を経て伏見へ抜けていました。山科駅があったのは、外環状線の少し西側あたりです。その北側に旧安祥寺川と山科川の合流点があり、さらにその北に勧修寺公園が広がっていますが、その少し西北一帯は中臣遺跡として知られる場所です。この中臣遺跡にも今回案内板が取り付けられています。これまでにも勧修寺東栗栖野町や勧修寺西金ヶ崎町周辺にいくつか説明板や石碑が設けられていました。中臣遺跡は10万平方メートルというとても広い範囲にわたる遺跡で、旧石器時代から縄文、弥生、古墳時代を経て奈良、平安、鎌倉、室町時代までの様々な時代の特徴が見られる複合遺跡として知られています。今回設置された場所は、その遺跡のなかでも最も古いと言われる約2万年前（旧石器時代）のナイフ型石器が出土した場所で、特に重要としてそのすぐ近くに案内板が設置されました。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol011_subimg10.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol011_subimg10.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>２万年前の人々が実際に生活していた場所だなんて、想像するだけでわくわくしてきます。その場所は、幸い歩道となっていて上に立てば、じんわりと遥か２万年の月日の悠久を味わうことが可能です。今回設置された看板には詳しい発掘カ所も載せられていますので、お近くの方や、興味のある方はぜひ現地へと足を運んでみてください。周囲に比べて少し高台になっていて、水の恩恵を受けつつ危険からは逃れられる、人の生活しやすい場所であったことが伺い知れます。詳しい場所をご説明しましょう。山科の中心部から西へ貫く新十条と山科川が交差するすぐ西側に旧街道の西野道との信号の交差点があります。そのもう一本西側の信号のある市営住宅沿いの通りは、南方向は坂上田村麻呂の墓でT字路になっています。その南への筋の西側歩道の入り口に案内板はあります。実際に発掘された場所は、そこからさらに50m南へ進んだ歩道の右側と看板に説明されています。坂上田村麻呂の墓のある公園まで突き当たってしまうと行き過ぎですので、目安としてください。この中臣遺跡は９０％近く未発掘のカ所がほとんどです。この付近を通るときには「足の下に２万年前から縄文、弥生時代のお宝が眠っているかも」なんて思いを馳せながらぼんやり歩いてみるのも、意外な心の贅沢が味わえるのではないでしょうか。</p>
<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
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    <title>甲斐源氏と山科六地蔵</title>
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    <published>2010-11-30T10:54:40Z</published>
    <updated>2011-06-13T11:34:25Z</updated>

    <summary>2年ほど前、山梨県甲府市に住む一人の女性が四ノ宮の地蔵堂を訪ねてこられました。山梨に伝わる地蔵堂の言い伝えと山科の地蔵堂、これまで知り得なかった小さな歴史事実が新たな一面を見せてくれるかもしれません。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>甲府との意外なつながり</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg01.jpg" width="210" height="315" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>四ノ宮の地蔵堂を守られている、臨済宗南禅寺派、徳林庵の政義ご住職を訪ねてお話をさせていただいたとき、「小谷さん、先日わざわざ山梨から人が訪ねて来られましてね」と数枚の写真を差し出して、少し興奮気味でこう続けられました。「山梨県というところは、独特の地蔵信仰がある地域なのですが、どうやら、その一番発端になっているのが、戦国時代に山梨の殿様の命令で、山科六地蔵堂から６体の地蔵が持ち出され、現地に迎え入れられたお地蔵さまらしいのですよ。ほら、このお地蔵さまなんか、鞍馬口のお地蔵さまそっくりでしょう。火事にあって、3体は燃えてしまったんですが、あとの3体が今も地蔵堂内に安置されているそうです」。そのときは、あまり深い内容がわからなかったので、「ふうん、そうなんだ」程度にしか、ピンときていませんでした。それから以降、徳林庵に顔を出すたびに、「小谷さん、現地見てきましたよ、やはり興味深いものです。ぜひ、今度案内しますので、一緒に見に行きませんか？」と盛んに勧めてくださるので、私も、早く、一度見てみたいものだな〜と、日に日に現地へ赴くことを強く待ち望むようになりました。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg02.jpg" width="280" height="245" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>徳林庵のご住職は現在、年に数回、その甲府市内の塩山の麓にある向嶽寺で、禅の修行に邁進されている真最中なのですが、そんな折、「参禅は日曜日なら一般の方の体験禅も一緒に行っているので、10月に今度あるのでぜひ行ってみませんか？　その時に、この間、お話ししたお地蔵さんも案内しますし」とまたお声をかけていただきました。が、その時も都合があわず、山梨行きも延びに延びていました。ようやっと、この11月15日から1週間、別件で諏訪へ出向く予定ができたので、11月18日に甲府市へ行く約束をして、19日の午前中に案内いただきました。</p>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>甲府の六地蔵信仰</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg03.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>地蔵堂前の石碑にあった由緒書の文脈はこうです。<br />
『甲府城主である武田勝頼が、叔母（父信玄の姉）が亡くなった弔いのため、山科の六地蔵堂から6体の地蔵を移し、金光山西昌院を創建、地蔵堂を建て安置した。大正５年８月23日の縁日の最中に、ろうそくの火が燃え移って火事になり、お堂半分と３体は焼けてしまったが、町の人々の有志で再建し、今日もなお8月23日は縁日でにぎわっている』。この縁日も山科四ノ宮の地蔵盆と全く同じ日です。地元の方の研究によれば、実際のところ、武田勝頼は父信玄が京都より持ち帰って祀っていた地蔵を母の菩提を弔うため安置したようです。信玄が四ノ宮を通りがかった際、何かしらの縁を感じ取り、以降六地蔵信仰を甲府地域に持ち帰り広めたようです。お堂は前からみれば六角形ですが、後ろ側は床の間のように四角い部分が飛出た変形六角堂になっています。現在は所属の寺院から少し離れているので、向かいのマンションの管理人の女性が、暇を見ては落ち葉を掃き、お守りされています。その女性が、この石碑に書かれた『山科六地蔵堂』という言葉を頼りに、わざわざ、山科まで由縁のお堂を探しに来られたと、そういうことでした。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg04.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>徳林庵の政義和尚は、その後、武田信玄誕生の地といわれている積翠寺へ案内くださいました。というのも、この甲府市やその東隣の石和温泉郷、その東の塩山温泉郷周辺には、灯籠の形をしているけれども、明かりを灯す火袋がなく、その部分が六角形になっていて地蔵さんが彫られているものが点在しているというのです。そのお寺の参道の両脇に二つ、それと見受けられる灯籠型のお地蔵堂が置かれていました。和尚の推測では「おそらく、この地域独特の風習で、武田勝頼が京都から持ち込んだ六地蔵信仰を、この地域の人々がコンパクトに信仰するツールだったのでは」ということでした。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg05.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>屋根の造りも細かく、溝が刻まれていて、台石の部分も広くとってあることから、「もともとは、この地蔵さまの外側にも木製の六角形の厨子のような細工がしてあって、それぞれが扉として開くようになっていたと考えられます。」と和尚は付け加えられました。政義和尚が禅の修行に励んでいるという向嶽寺にも、この種の灯籠型地蔵堂があるというので、立ち寄ってみました。この塩山を背後に立っている禅寺は、代々武田家ゆかりの方々も、禅の修行に励まれ、武士としての誇りと魂を研ぎすまされた場所だそうです。武田家の方々は、雅楽や歌詠みにも精通され、さすが源義光に起源する甲斐源氏といったところでしょうか。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg06.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>甲斐源氏と四ノ宮</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg07.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg07.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>四ノ宮地蔵を守られている南禅寺派徳林庵の政義和尚は、山梨県のここ向嶽寺で現在禅の修行中ですが、この禅寺のすぐ背後に座する塩山は、心なしか 徳林庵の後ろにある諸羽山（柳山）と幾ばくか雰囲気がよく似ていました。「それにしても、この後ろの山は諸羽山そっくりですね、まるで四ノ宮にいるみたいですね」というと、「ぼくも始めて来たときから、そう感じていました。ここでの修行は僕にとっての喜びです。」</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg08.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg08.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>その後、和尚とは別れて、石和温泉郷にある山梨県立博物館でたまたま甲斐源氏展を開催していたので、2時間くらい粘って貴重な宝物や古文書、念持仏などをじっくり見て帰りました。お陰で、甲斐源氏についての知識も少しばかり増えて喜びました。その夜はせっかくなので石和温泉郷で泊まることにし、博物館のロビーにあった宿泊施設パンフを眺め「喜仙」という宿屋に決めました。単に、山科四ノ宮の諸羽神社由緒書に掲載されている人康親王伝説を読み込んだ歌「つらしとて もろはのやまにかくるとも われやまびこになりて こたえむ（出典は万葉仮名）」が、六歌仙で有名な喜仙法師作とされていたからという理由からですが。こんな遠い場所に由縁を感じてもしかたなかろうと、我ながらいつもの癖に嫌気が差しましたが、とりあえず、電話をかけて宿へと赴きました（旅館喜仙 <a href="http://www.kisen.gr.jp/" target="_blank">http://www.kisen.gr.jp/</a>）。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg09.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg09.jpg" width="240" height="260" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>旅館「喜仙」は、石和温泉らしい歓楽街のど真ん中にありました。「喜仙に釣られて来てしもうたけど、ほんまに大丈夫かいな〜」と少々心細くなりましたが、玄関から入るや否や、老舗らしい落ち着いた旅館の雰囲気と、何よりも三千坪を誇る石庭に、滝落とし水走らせなどした趣深い庭の立派さに驚きました。その光景から、ふと、山科の四ノ宮に昔、隠棲御所を営んだとされる人康親王の庭跡が重なり、後々、某紡績会社の料亭の庭（小川治兵衛作庭）となっていたことを思い出しました。「ひょっとして、ここも、どこか誰か偉い人の庭跡が、あとあと、こんな風に旅館の庭先に遣われているのでは？　南禅寺周辺の料理屋さんなんかもみんなそうだし、御所の周辺のホテルのお庭だってそう。きっとここもそうに違いない！」と、根拠のない推測がむくむくと起き上がります。</p>
<p>帰宅後、気になって調べてみたところ、現在は武田城趾（武田神社）など甲府市にゆかりの多い武田家史跡ですが、信玄のひいおじいさんに当たる武田信昌が当主の時代に、石和にあった武田家屋敷を少し東の甲府市川田に移したことが記録に残っていました。お宿「喜仙」の住所は川田から約1km西の川中島。あたらずとも遠からじで、嬉しくなりましたが、ここはホントに根も葉もないヤマカンなので、追々こちらのお宿にもきちんとお話を伺う機会を作ってみて、じっくり調べていくぞと、心に近いました。</p>
<p>斐源氏の祖とされる新羅三郎義光は、清和天皇第六皇子の貞純親王流れの清和源氏です。清和天皇といえば、愛する四ノ宮のヒーロー、人康親王の甥っ子さん。人康親王の子どもさんたちも、初期の仁明源氏ともいえる源興基、源興範として、源氏姓を名乗っておられました。案外、武田勝頼の時代までは、その流れがきちんと把握されていて、先祖の一族である人康親王の記述を『伊勢物語』の一節に発見して、同じような庭を築いたり、ゆかりの地からお地蔵様を運んだのかも知れません。兎にも角にも、人康親王びいきの筆者にとっては、実り多き甲斐の旅路となりました。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol010_subimg10.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol010_subimg10.jpg" width="650" height="355" class="mt-image-none" style="" /></span>
<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
</div>]]>
        
    </content>
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    <title>白鳳時代の寺、大宅廃寺</title>
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    <published>2010-11-30T10:36:38Z</published>
    <updated>2011-06-13T11:33:50Z</updated>

    <summary>かつて存在した大寺院も、語り次いでいかなければ、その痕跡すら消え去ってしまいます。事実の是非は学者の皆さんの今後のご検討にお願いすることとして、今回は山科にとっての大切な廃寺の云われについて、勝手気ままな想像を交えつつ、思いを馳せてみたいと思います。</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.en-kyoto.jp/feature/">
        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>土地のもつ匂い</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg01.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>名神高速の南側、京都橘大学の学舎が立ち並ぶ一帯の袖先に大宅廃寺跡と称される場所があります。昭和33年の高速道路建設に伴って東西27メートル、南北約15メートルの寺院の伽藍跡が発見され、平成に入ったつい最近まで、「山階寺跡」や「山科精舎」「陶原の館」といういくつかの呼び名をもつ、奈良興福寺の前身、中臣鎌足の屋敷跡地候補として有力な場所でした。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg02.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>近年、京都大学の吉川真司准教授の研究と論文発表により、その推定有力候補地が京都薬科大学周辺に移ってきています。鎌足の屋敷跡でないなら、この寺院跡には、一体何があって、どういう氏族の関わりがあったのでしょうか。地元豪族であった大宅氏の拠点だったとの説もあります。はるか白鳳時代に思いを馳せつつ、自由に推察してみたいと思います。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg03.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>場所をもう一度、確認しましょう。奈良街道を国道１号（五条通）から南下して名神高速度道路をくぐります。右に葬儀などのセレモニー会館があって、左はその駐車場と、浅い段々の棚田。この一帯が大宅廃寺跡と称される場所で、その奥の大宅中学校内に「大宅廃寺」の石碑が立っています。グラウンドの囲い沿いに裏手へ回れば、六条河原院（もともとは光源氏のモデルと称される源融のお屋敷だったところ）から引っ越して来た歓喜光寺があります。山沿いに開けた景色のよい場所で、庭もこぎれいに整備され、豊臣家ゆかりの本堂や、満悟上人の木像などは歴史ファンならずとも一見の価値がある文化財です。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg04.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>その北隣には、現在はなぜか敷設トイレ（縁日やビックイベントなどでずらり並んで活躍する、樹脂製簡易トイレ）の貸し業者所有の野外倉庫があります。そのもう一つ北側には、卒業生の方々はよくご存知と思いますが、大宅中学校の格技場があります。仕事で橘大学に届けものをした折の帰りに、ふと回り道をしてみたくなって通りがかったときに、初めて見つけ「中学校の敷地内には別に立派な体育館があるのに、わざわざ、こんな立派な武道場があるなんてすごいなぁ」と感心しましたが、そのときふと、この土地との何か深い由縁があるのじゃないかと思えてきました。余談ですが、宇治川の大橋を渡った南側に、一軒のボクシングジムがありますが、あの地はめくるめく時代の流れの中で何度も合戦の舞台となった場所です。古戦場の近くに、格闘技の教室なんていうのは、調べてみると意外に多かったりするのではないかと、勝手な持論を立てているのですが、まさにこの大宅廃寺も、そんな匂いのする場所に思えました。根拠は全くなかったのですが、今回、別件で、長野の諏訪大社へ赴く用事があり、その地で、地元の方に諏訪地方の歴史などいろいろとお話を聞く機会を得て、より色濃く、その思いが強まりましたので、書きしたためておきたいと思います。</p>
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</div>

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<div class="box clearfix">
<h4>天智、大海人活躍の時代</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg05.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>白鳳時代というのは、一般的には飛鳥時代の後半、狭義には天智天皇の大化の改新以降、奈良時代が始まるまでを言うそうです。天智天皇は蘇我の入鹿を討った「乙巳の変」の後、大津に宮廷を営んでいましたから、その頃の山科は、中臣鎌足をはじめとする天智天皇や大海人皇子の家来といえる氏族の人々が拠点を構えていたものと思われます。まさに江戸時代以降に自治圏として栄えた山科郷士の種が発芽した時代だったのではないでしょうか。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg06.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>今回の旅は、長野県の諏訪市（上諏訪）と下諏訪町に「御柱祭」のいわれについて取材をするという目的で出かけました。7年に一度の大祭で、昨年無事終えられたそうですので、さまざまな準備を含め、次の7年後の「御柱祭」まで、定期的に取材に行けたらとの魂胆でした。今回は手始めに、古い時代からの諏訪地方の歴史を知っておきたいと宿泊先の宿にボランティアガイドさんをお願いしていました。（「うらかめや」さんといって、おいしい京料理を格安でいただける素敵な温泉旅館でした！ <a href="http://www.urakameya.com/" target="_blank">http://www.urakameya.com/</a>）観光協会からの紹介で、11月16日には地元で名の通った郷土史家、蟹江文吉さんに朝10時から夕方４時半まで、びっちりとご案内いただくこととなりました。まずは下諏訪の下社春宮から秋宮、そして青塚古墳を案内いただき、午後はたくさんある小宮のいくつかと上社、その山手にある環濠古墳などをめぐりました。</p>
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<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg07.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg07.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>諏訪湖へは観光で何度か訪れたことがありましたが、諏訪大社の上社、下社の云われなどには、今の今まで無頓着。音の響きから醍醐寺や旧安祥寺の上寺、下寺と同様の位置的な呼称としか、考えが及んでいませんでした。蟹江さんの説明によると、上社は５世紀頃に大和朝廷の勢力に負けて、出雲から逃げ仰せ、諏訪に勢力を築いた一族が、その祖を諏訪明神として祀り創建した社とのことで、祭神は、大国主神（おおくにぬしのみこと）の子である建御名方命（たけみなかたのみこと）とその妻の八坂刀売命（やさかとめのみこと）だそうです。他方、下社はその動きを制す目的で、大和朝廷側が遣わした金刺氏の一族が神職を勤め、同二神の諏訪明神を崇め奉った社だということでした。金刺氏はもともと神世の時代の奈良地方出身の臣下皇族系氏族で武力に優れ、大海人皇子の陣営であったと言われます。下社が創建されたのは白鳳期、天智天皇の時代に大海人皇子の命により、金刺氏が諏訪入りしたという見方が有力なようです。</p>
<p>下社秋宮のすぐ横、筆者が泊まった「うらかめや」の真向かいにある青塚古墳は、最後期かつ日本最東の前方後円墳として知られ、大和朝廷の勢力圏であったことを物語っていて、歴史家の間では金刺氏の長の墓というのが通説となっています。その頃から既にこの辺りでは岡谷牧という国営の馬牧が営まれ、金刺氏は室町時代頃まで、騎馬隊を誇る武士団として、この下諏訪の地に勢力圏を築いていました。</p>
<p>また、現地で頂いた「月刊オール諏訪」の2008年10月号に北澤謙吾さんという方が諏訪地方の地名「桑原郷」について書かれた記事も興味深かったので、触れておきます。北澤さんの推察では「桑原」は、もともと大和国葛上群桑原町にいた桑原氏がそのすぐ近隣である添上群坂上郷の坂上氏の同族もしくは配下の集団で、桓武天皇の時代、坂上田村麻呂が奥州遠征に出かけた折に諏訪へ立ち寄ってそのまま住み着いた可能性を示されていました。坂上田村麻呂の先祖は百済王族系の血を引く東漢氏（あずまあやし）に端を発しているようで、白鳳の天智天皇の時代にも、坂上氏や桑原氏はその臣下の武士団として役割を果たしていたと考えられます。</p>
<p>長野を訪れたときに偶然得た情報は、山科の白鳳期にとって、非常に重要な鍵を握っている気がします。天智天皇の一団は、大和を脱し、この山科を経て、近江へと入りました。当然のごとく、その臣下集団であった金刺氏や坂上氏、桑原氏なども、長野へ行く前には、山科を本拠とした時代があったようにも思われます。大宅廃寺が果たして、これらの武士団の本拠であったか、この先はそれ相応の学者先生方におまかせするとして、ふと得た情報が、新たな歴史ロマンをかき立てる材料になったことは、確かです。</p>
<p>「犬も歩けば棒にあたる」。いにしえのことわざはあなどれないなあと、つくづく思えた出来事でした。皆さんはどうお考えになるでしょうか。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol009_subimg08.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol009_subimg08.jpg" width="650" height="350" class="mt-image-none" style="" /></span>
<br class="clear-brank" />

<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
</div>]]>
        
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    <title>天智天皇が時代劇ヒーローとなって活躍</title>
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    <published>2010-11-29T08:15:15Z</published>
    <updated>2010-11-29T08:43:00Z</updated>

    <summary> 天智天皇、中臣鎌足が時代劇ヒーローとなって活躍 三条商店会わくわくフェスティバ...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.en-kyoto.jp/">
        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a style="" href="http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/11/101129-180.html" onclick="window.open('http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/11/101129-180.html','popup','width=410,height=500,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/11/101129-thumb-300x365-180.jpg" alt="101129.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" height="365" width="300" /></a></span>
<p><strong>天智天皇、中臣鎌足が時代劇ヒーローとなって活躍</strong></p>
<p>三条商店会わくわくフェスティバルの11月20日、天智天皇や中臣鎌足、坂上田村麻呂、源義経、小野篁など、やましなゆかりの歴史ヒーローが神様となって活躍するストリート剣劇『Chamber Alive 剣誠神』のご利益チャンバーライブが開催されました。</p>
<p>来春には天智天皇、中臣鎌足が新政権樹立に挑む、「乙巳の変」「大化の改新」をテーマに剣劇を開催する予定です。<br />
乞うご期待。</p>
<p class="strong-link"><a href="http://www.en-kyoto.jp/news_img/profile.pdf">剣誠神プロフィールはこちら</a></p>
</div>]]>
        
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    <title>京都・山科清水焼団地 楽陶祭で大石内蔵助が時代劇ヒーローとなって活躍！</title>
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    <published>2010-09-03T02:52:32Z</published>
    <updated>2010-09-21T03:15:37Z</updated>

    <summary> 大石内蔵助が時代劇ヒーローとなって活躍！ 「京都・山科清水焼団地 楽陶祭」の1...</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a style="" href="http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/09/100903-151.html" onclick="window.open('http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/09/100903-151.html','popup','width=410,height=360,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/09/100903-thumb-300x263-151.jpg" alt="100903.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" width="300" height="263" /></a></span>
<p><strong>大石内蔵助が時代劇ヒーローとなって活躍！</strong></p>
<p>「京都・山科清水焼団地 楽陶祭」の10月10日、天智天皇や中臣鎌足、坂上田村麻呂、大石内蔵助など、やましなゆかりの歴史ヒーローが神様となって活躍するストリート剣劇『Chamber&nbsp; Alive 剣誠神』第二回公演が上演されます！<br />ぜひ、御来場ください。</p>
<p class="strong-link"><a href="http://www.en-kyoto.jp/news_img/profile.pdf">剣誠神プロフィールはこちら</a></p>
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    <title>FEATURE-- 「盛夏の候、大石良雄山科に隠棲す。 」、「安朱、サルスベリ紀行。」を公開しました。</title>
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    <published>2010-09-03T02:49:52Z</published>
    <updated>2010-09-03T02:51:30Z</updated>

    <summary>特集「FEATURE」に、「盛夏の候、大石良雄山科に隠棲す。 」と「安朱、サルス...</summary>
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        <![CDATA[<p>特集「FEATURE」に、「盛夏の候、大石良雄山科に隠棲す。 」と「安朱、サルスベリ紀行。」を公開いたしました。是非ご覧ください。 </p>]]>
        
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    <title>安朱、サルスベリ紀行。</title>
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    <published>2010-09-02T05:09:59Z</published>
    <updated>2010-11-30T10:52:59Z</updated>

    <summary>真夏の太陽輝く青空に似合うといえば、赤紫色のちりちりした花弁をもつサルスベリ。８月中旬から下旬にかけて、山科駅北側の住宅街ではその花があちらこちらで咲き誇っています。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>美しい因縁</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg01.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>友人が「家守綺譚（いえもりきたん）」という梨木香歩（なしきかほ）さんの小説を貸してくれました。学生時代はこの山科にお住まいで、一時京都のまち中へ引っ越されていましたが、縁あってつい先日、また山科の住民となられた方で、「この本、大好きで昔から持ってたんですけれど、これって、どうやら山科のことが書かれてるみたいなんです！　ご存知ですか？」彼女が少々興奮気味で訴えてくるので、本当はどんな内容が書かれているのか、かなり気になったけれども、「ふーん？」と、そんなに関心を見せることは敢えて押さえて見せつつ、パラパラとページをめくってみました。とたん、最初の二行に描写された主人公が住まうその庭が、筆者が小さい頃遊んだ、幼なじみのお家の庭だとすぐにわかりました。ふいをつかれた初め二行に、こちらもすぐさま興奮状態入りしましたが、敢えてそれをおさえて読み進めたところ、進むほどに知っている情景に出会います。作者の描き出す世界とこちらの脳裏に過去から浮かび上がる世界が一つにつながってゆくようで、異様な優越感に包まれた感じが心地よく、友人の存在はそっちのけで懐かしい記憶と見慣れた情景を文字の中に探しました。このあたりの住民にとっての母なるナイル、「疏水」という言葉も幾度となく現れ、『この作家さんは、きっとこの地に魅了されたのだろうな〜。一度地元のタウン誌に寄稿してほしいな〜（できれば安朱好きのヨシミで）』などと、勝手な考えを思いめぐらせながら、横にいる友人に「間違いなく山科が舞台、私のおうちの近くだよ」と返答しておきました。パラパラと読んだ第一話は「サルスベリ」という題名でした。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg02.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>その翌日、いつものように宇治の黄檗まで黄色の軽自動車で仕事に出かけ、いつもより少し早い時間、まだ明るいうちに帰れたので、諸羽神社の近くの宝篋印塔にお参りしてから帰ることにしました。参道を行くと、突然、フロントガラス全面に満開のサルスベリ。思わず、いったんブレーキをかけてしまいました。夕焼けにはまだ少し早い、金色に輝きはじめた薄青空に映える濃赤紫の巨木...。「サルスベリ、昨日読んだとこだ...しかもこんなに大きな。」ちょっとした感動を味わって、宝篋印塔へのお参りを済ませ、帰宅しました。その距離ほんの６００mほど。時間にしておおよそ2分ほどですが、そのわずかの間に、黄色の軽自動車のフロントガラスは、10本ものサルスベリをとらえ、運転手は驚きを隠さずにはおれませんでした。毎日通っている道のはずなのに、朝は遅刻しないことに頭がいっぱいで、眼は花も、色をも見ておらず、帰りは帰りで夜の帳が、花の色を隠していたようです。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg03.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>それにしても、この安朱というところは、ほとんどのお宅の庭にサルスベリの木が植わっている。確かに、庭木としてはとってもポピュラーな木で、江戸時代から日本に伝わり好まれたらしいので、近所のあちこちに植わっていたからといって、とりたてて珍しいものでもないかもしれません。ですが、なぜだかサルスベリの由縁が気になって、ウェブ検索で引くことにしました。すると、『中国では唐代長安の宮廷に多く植えられたため紫薇（しび）と呼ばれる』とありました。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg04.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>偶然とはいえ、小説に描かれた庭は、唐の時代、日本では平安時代に仁明天皇の第四皇子、人康親王（さねやすしんのう）が目を悪くして宮廷を退き、晩年をひっそりと暮らした隠棲御所と伝わる場所でした。そんな事実を並べられたら、ついつい、「意外と、唐代に伝わった紫薇（サルスベリ）が種をまき散らしまき散らし、その子孫を絶やさずに生き延びてきた木もあるのかも!?」なんて、おあとが良ろし過ぎるでしょうか。</p>
<br class="clear-brank" />
</div>

[[SplitPage]]
<div class="box clearfix">
<h4>町景色をみんなで</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg05.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>自分が住まう近隣の話題で、あまりにも素敵な事実が判明したことを契機に、ちょうど区内の大学から、山科区の景観調査なるものを引き受けていたので、サルスベリの分布について、散歩がてらに歩いて調べてみることにしました。駅北のこの安朱地区という場所は、戦時中、進駐軍が借り上げて住む家に選ばれるほど、大きな屋敷が建ち並んでいました。現在もその様相を色濃く残す地域です。かつて社寺へ参る際に馬をつないだ「桜の馬場」という地名の通り、道端に飛び出した老桜が今も残る道や、毘沙門堂へと続くゆるやかな坂道、そこを横切り蛇行して流れる疏水、三方を山に囲まれた景観などが美しく、昔から芸術家や資産家に穴場的な人気を博す地域です。この景観は「ぜひに守ってゆくべき」と調査報告書には書きたいと思っています。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg06.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>庭を囲う植え込みから、頭をのぞかせる鮮やかなサルスベリ。８月の安朱を訪れれば、そこはサルスベリの花園といっても過言ではないかもしれません。予想通り、サルスベリのないお宅を探す方が難しかったです。ただ、時期的に９月に入っていましたので、「あっ、ここないや」と思って通り過ぎようとすると、生け垣から飛び出すシナリのある長細い葉が「ぼくはここにいるさ」とささやくお家が、3件ほどありました。背の低いサルスベリは、そのつるつるの木肌が隠れてしまっていて、花が散ってしまっては、ほかの雑木にその存在を掻き消され、全くもってただの緑に過ぎないのです。そうかと思うと「あっ、ここにも！」とチェックしようとして近づくと、キョウチクトウの花だったというのも2回ほどありました。あとは白いサルスベリも３軒のお宅で見かけました。　サルスベリは花びらの先がちりちりと縮れていて、糸を引っ張ってつらせてしまったちりめん布のよう。満開が過ぎると、赤紫の種類はだんだんと色が薄くなって先が黒く縮れ、瑞々しさがおとろえ、やがてパラパラと散り落ちます。</p>
<br class="clear-brank" />

<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg07.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg07.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>幼い頃は、その一風変わった木肌の方に興味がありました。樹木の名前も「猿が滑る」というそのままのネーミング。ですが、大人になって関心を持ったのは、真夏の鬼のように暑い日差しにも屈せず、百日も紅色を保ち続けるタフで美しい花の方。さまざまな姿形に出会えた安朱サルスベリハントに歩いてみて、ぜひ提案したいことがムクムクと。これだけたくさんの家で、たまたまなのか造園屋さんの趣味なのか、サルスベリを見受けるのもきっと何かしら意味があるはず。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol008_subimg08.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol008_subimg08.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>これから安朱に新しく住まう皆さんも、長年居るけどサルスベリが植わっていない家主さんも、ぜひ、サルスベリを植えませんか？　夏の盛りの『サルスベリの里』として、遠く長安の宮廷に思いを馳せながら、散策できる町づくり。素敵な思いつきだと我ながら感心するのですが、いかがでしょうか？</p>
<br class="clear-brank" />

<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
</div>]]>
        
    </content>
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    <title>盛夏の候、大石良雄山科に隠棲す。</title>
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    <published>2010-09-02T02:55:53Z</published>
    <updated>2010-11-30T10:53:22Z</updated>

    <summary>大石内蔵助が山科に隠棲したのは、江戸元禄15年、旧暦の6月28日。現在の暦では7月下旬。大石神社では、隠棲祭の神事が行われていたことがありました。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>夏の季節と忠臣蔵</h4>
<p>大石内蔵助のシーズンといえば、吉良邸に討ち入った12月から冬の印象が強いですが、実は山科では夏も大切な季節です。大石内蔵助が赤穂を離れ、山科の地にやってきたのが、旧暦の６月28日、今の暦で７月下旬頃です。特に催しがあるわけではないですが、かつて大石神社の年間行事のなかに、奉賛会の方々が集まり「隠棲祭」という神事が行われていたこともありました。大石神社奉賛会では、この時期に子供向けの夏祭りなども実施していたそうです。</p>
<p>歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の元となったのが、江戸元禄の頃に起こったお家騒動、赤穂浪士の悲劇の物語です。大石内蔵助が山科に隠れ住むことになったいきさつを全くご存知ない方のために、少し触れておきましょう。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol007_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol007_subimg01.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>大石内蔵助や赤穂浪士の上司であった浅野内匠頭は、元禄十四年三月十四日、江戸城松の廊下にて吉良上野介に斬りつけるという、あってはならない殿中刃傷沙汰をおこしてしまい、その日のうちに切腹させられてしまいます。質素倹約に律儀な浅野内匠頭と、心付けや進物に欲深い吉良上野介との、物の考え方の相違からくる「いざこざ」が発端でした。驚いたのは浅野内匠頭の領地、赤穂藩にいた家臣たちです。天下太平であった世の中を震撼させた事件が自分たちのボスの仕業で、切腹させられたというのですから、城中が大慌て。幕府からは城の明け渡しを迫られますが、斬りつけられた吉良は軽傷でぴんぴんしていて、「お咎め無し」だったこともあり、仇討ちを主張するもの、城に立て篭って対抗しようとするもの、明け渡して降伏しようとするものなど、意見が分かれて大騒ぎになります。その騒動をまとめたのが赤穂藩筆頭家老であった大石内蔵助でした。大石は、知り合いのツテやできる限りの人脈を活かして、浅野家の再興を図ろうと江戸幕府に働きかけたようです。その内約をとりつけ、浪士たちを説得し、一旦は城を明け渡すこととなりました。慌てず、騒がず、誰一人血を流すことなく「無血開城」を果たした彼の手腕は、現在のリーダーシップのお手本として高く評価されています。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol007_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol007_subimg02.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>こうして、赤穂を離れることになった大石は、山科に屋敷を持っていた親戚、進藤源四郎の世話でこの山科に暮らすこととなりました。</p>
<br class="clear-brank" />
</div>
[[SplitPage]]
<div class="box clearfix">
<h4>赤穂浪士をまたヒーローにしたいなあ。</h4>
<p>10年一昔。一昔前までは、年末のドラマや時代劇の映画では、必ずヒットする題材として人気のあった赤穂浪士の物語「忠臣蔵」。日本人なら誰しも涙した物語でしたが、このところはめっきり放映の機会が減り、本当に好きな方々のための舞台にとどまっているような気がします。歌舞伎や浄瑠璃の観劇に、南座や文楽劇場へ連れて行ってもらった思い出のあるファンの方々は、より一層、このことに危機感を募らせておられる方々も少なくないのではないでしょうか。仇討ちや切腹など、現代の善悪の考え方にそぐわない内容ということも手伝って、30代より若い皆様方の「忠臣蔵」離れは深刻です。書いて字のごとく、日本人らしく「忠」義に「誠」を込め尽くした赤穂浪士。ゆかりの地であるこの山科にお住まいの皆さん方こそ、彼らがこの後も末永く、日本人のヒーローたらんがために、ほんとはもっともっと、危機感を募らせていただければと思うのです。</p>
<p>筆者も「忠臣蔵」離れ世代の一人です。とはいえ、かろうじて、今は亡き母方の祖父に一度だけ人形浄瑠璃の祇園一力の場面に連れて行ってもらった思い出や、山科の駅前に集まって、うれしそうに「エイエイオー」と刀を突き上げる、今は亡き父方の祖父の浪士姿を見た記憶が残っていました。大石内蔵助の地味〜だけれども大きな人柄や、赤穂浪士一人一人の命知らずな格好よさ、そんなイメージがな〜んとなくインプットされた一人として、危機感は募らせれるだけ募らせて、いろいろと行動に変えていきたいと思います。思いの丈は疏水の底よりも深く、諸羽の山よりも高い！（今はその程度ですが、いずれは日本海溝と富士山に変えれるよう、日々精進です）。</p>
<p>そんな行動の一つが、昨年あげたブログにも書かせていただきました「山科こども歌舞伎」です。同じ「忠臣蔵」離れ世代の中年若造数人が、「忠臣蔵」どっぷり世代の先輩に導かれて、危機感を共有、山科の未来を担う幼稚園の先生方にぜひ、忠臣蔵を題材にした「こども歌舞伎」立ち上げ公演にご出演願えませんかと、声をおかけしたところ、皆さんご賛同いただき、2009年より大石神社のなんと神殿・拝殿を舞台に「松の廊下」や「討ち入り」シーンを上演することができるようになりました。2010年は、さらに2つの幼稚園にご協力いただき、有料観覧座席にて、じっくりとお楽しみいただけるように準備中です。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol007_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol007_subimg03.jpg" width="280" height="210" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>もう一つの行動が、時代劇の役者さんたちによるストリートライブ剣劇「Chamber Alive 剣誠神」です。2010年7月24・25日に開催された清水焼団地陶器祭会場では、大石内蔵助が山科の神さんとして登場し、死にかけた新撰組の齋藤一を復活させる話で、無事初公演を終えました。10月10日の清水焼団地楽陶祭では、大石内蔵助が神様になるまでのお話を予定しています。</p>
<p>ご当地ザムライとして、「天智天皇」「中臣鎌足」「大石内蔵助」「坂上田村麻呂」「源義経」「小野箼」「人康親王」「蓮如上人」ら山科ゆかりの歴史ヒーローが登場して、迫力のあるチャンバラ剣劇を繰り広げます。いろんなイベントで皆様にお会いできること、神々も楽しみにしています！（筆者はあっちの世界で彼らとはすでに友達です）乞うご期待。</p>
<br class="clear-brank" />
<p class="right">（文 小谷 昌代）</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol007_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol007_subimg04.jpg" width="650" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span>
</div>]]>
        
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    <title>清水焼団地陶器まつりで天智天皇が時代劇ヒーローとなって活躍！</title>
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    <published>2010-06-08T01:49:15Z</published>
    <updated>2010-06-08T06:52:19Z</updated>

    <summary> 天智天皇が時代劇ヒーローとなって活躍！ 「清水焼団地 陶器まつり」の7月24・...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.en-kyoto.jp/">
        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a style="" href="http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/06/100607-128.html" onclick="window.open('http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/06/100607-128.html','popup','width=410,height=580,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://www.en-kyoto.jp/assets_c/2010/06/100607-thumb-300x424-128.jpg" alt="100607.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0pt 20px 20px 0pt;" width="300" height="424" /></a></span>
<p><strong>天智天皇が時代劇ヒーローとなって活躍！</strong></p>
<p>「清水焼団地 陶器まつり」の7月24・25日、天智天皇や中臣鎌足、坂上田村麻呂、大石内蔵助など、やましなゆかりの歴史ヒーローが神様となって活躍するストリート剣劇『Chamber&nbsp; Alive 剣誠神』が上演されます！<br />珍しい和楽器、平家琵琶や筑前琵琶、笙の音色も生で聞けます。ぜひ、御来場ください。</p>
<p class="strong-link"><a href="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/yamashina_PR.pdf">剣誠神プロフィールはこちら &raquo;</a></p>
</div>]]>
        
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    <title>FEATURE-- 「天智天皇と時の記念日。 」を公開しました。</title>
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    <published>2010-06-08T01:48:26Z</published>
    <updated>2010-06-08T03:40:17Z</updated>

    <summary> 特集「FEATURE」に、「初夏の山科疏水、禅の道。 」を公開いたしました。是...</summary>
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        <![CDATA[ <p>特集「FEATURE」に、「初夏の山科疏水、禅の道。 」を公開いたしました。是非ご覧ください。</p>]]>
        
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    <title>天智天皇と時の記念日。</title>
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    <published>2010-06-07T10:32:42Z</published>
    <updated>2010-09-03T02:43:09Z</updated>

    <summary>6月10日、時の記念日はご存知ですか？休日にはなっていないので意外と知らない方も多いかもしれませんね。ですが、天智天皇が眠るこのやましな盆地の住民なら、
ぜひとも知っておいてほしい記念日です。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>「時の記念日」って何？</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol006_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol006_subimg01.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>大正時代は、軍備増強をはじめ様々な政治政策が執り行われてきましたが、「欧米に追いつけ追い越せ」と、国民にさまざまな情報をPRするため、記念日の制定にも熱心な時代でした。大正9（1920）年に東京天文台と生活改善同盟会が、6月10日を「時の記念日」として制定しました。明治という新しい時代が幕をあけて、50年ほど経った頃。人々は、ようやく生活のリズムをつかめるようになってきたのでしょう、時間をきちんと守って生産活動を合理的にという、まさに時代を反映して制定された記念日です。時の記念日がその日に制定された理由として、『日本書紀』にある「置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。」という一文がとりあげられたようです。意味は以下の通りです。「このたび新しく水で時を計るものを設置しました。この日、日本で初めて鐘鼓が動いて、時を打ちました。時計というものを初めて用いました。」この記述にある通り、日本で初めて時計を用いた日が、天智天皇十年四月辛卯条（678年6月10日）と記されていて、6月10日が時の記念日となりました。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol006_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol006_subimg02.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>難しい漢字が並ぶなかに『漏尅』という文字が見てとれますが、これが『ろうこく』という水時計です。階段式に水槽が並んでいて、水が注がれると順番に水槽に水が溜ってゆき、最期の水槽には浮きが仕掛けられていて、満杯になると鐘を鳴らすという大掛かりな装置です。当時、中国から伝え聞いていたものを天智天皇自らが指示して作らせたと『日本書紀』には記されています。</p>
<p>京都市営地下鉄東西線で京阪三条から山科方面へ向かう際、山科駅の一つ手前に「御陵」駅があります。この辺りの地名としてよく知られるこの「みささぎ」こそ、日本で初めて時計を作った天智天皇のお墓を指してのもの。山科疏水沿いをよく散歩される方なら、石桁の柵が続く景色が、天智天皇陵の裏側だということは、おそらく皆さんよくご存知のことではないかと思います。三条通（旧京津国道）側の交番の横が正面入り口になっていて、その左側には、日本で初めて時計を作ったという天智天皇の功績を讃えて、石造日時計がモニュメントとして建てられています。天智天皇を祀った滋賀県の近江神宮には、『漏尅』が再現されて置かれていますので、また訪ねてみてください。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol006_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol006_subimg03.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>この御陵（ごりょう）さんは、宮内庁の管理下に置かれていますが、中まで自由に出入りでき、近所の人々が四季の移り変わりを楽しむ静かな散歩コースとして重宝されています。背後には、額田王が亡き天智天皇を偲んで歌にも詠んだ、ふたこぶラクダのような「鏡山」が美しく、砂利の参道を少し行くと、国道の車の音はだんだんと遠ざかり、鬱蒼と茂る木々の下に入る頃には、鳥の声や木々の葉音など、目をつむれば遥か飛鳥の時代にタイムスリップできるかのような静けさに包まれます。明治時代に整備された神陵の奥に、今も太古の森が横たわっています。</p>
</div>
[[SplitPage]]
<div class="box clearfix">
<h4>天智天皇という人</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol006_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol006_subimg04.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>ふだんよく口にする地名なのに、それがどういったことを指すのかふと知ったとき、自分の頭の中で、ちょっとした脳内革命（活性）がおこっている実感を得ることがあります。先ほどの山科の「御陵」もそうでしたが、筆者にとっては、滋賀県大津市の「皇子山」というところもそういう場所でした。</p>
<p>そこには「皇子が丘公園」という大きな市営の公園があって、野球場やプール、こどもの遊び場など、ファミリー向けの施設が充実しています。もみじや桜もきれいで、山ふもとには国立の大津ユースホステルセンターがありました。</p>
<p>大学生の頃まで、このユースホステルの宿泊施設に何度も泊まったり、研修に訪れたりしていました。のどかな緑いっぱいの自然環境に包まれるそんな場所が大好きだったのを覚えています。その慣れ親しんだ場所が、山科にお墓のある天智天皇ゆかりの地だと実感したのは、もう三十代半ばの頃でした。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol006_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol006_subimg05.jpg" width="280" height="230" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>近江へ都を移した理由については、朝鮮の侵略を防ぐためという説が有力ですが、当時都のあった飛鳥も、朝鮮からすれば結構内陸で、筆者はあまり説得力がないと感じています。それよりも、葛城皇子もやはり人間でしたので、入鹿の首を落としたその現場では、とてもじゃないけれども気分を一転して、まつりごとに取り組むことなど、できなかったのではないかと想像します。若いエネルギーのあるうちは飛鳥で突っ走って来れたものの年数を経るうちに、蘇我氏残留への懐疑心や、心に湧く入鹿の怨霊に悩まされたり、あげくの果てに外国との戦争とあれば、よほどの人物でも、精神的な疲労は免れないでしょう。</p>
<p>大津宮があったとされる皇子山は、東に琵琶湖を望み、天気の良い日には湖東の山々と日の光にきらきらと細かく波打つ湖面を見下ろすことのできる、人間ならだれしも心癒され、希望に胸躍る場所です。この皇子山の懐が、突っ走ってきた葛城皇子という、一人の時代革命児の疲れ切った心をときほぐした場所だったに違いありません。</p>
<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol006_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol006_subimg06.jpg" width="210" height="300" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<h5>EVENT NEWS</h5>
<p><strong>天智天皇が時代劇ヒーローとなって活躍！</strong><br />
「清水焼団地　陶器まつり」の7月24・25日、天智天皇や中臣鎌足、坂上田村麻呂、大石内蔵助など、やましなゆかりの歴史ヒーローが神様となって活躍するストリート剣劇『Chamber  Alive 剣誠神』が上演されます！ <br />
珍しい和楽器、平家琵琶や筑前琵琶、笙の音色も生で聞けます。ぜひ、御来場ください。</p>
<p class="strong-link"><a href="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/yamashina_PR.pdf">剣誠神プロフィールはこちら &raquo;</a></p>
</div>]]>
        
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    <title>FEATURE-- 「初夏の山科疏水、禅の道。 」を公開しました。</title>
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    <published>2010-04-30T06:19:29Z</published>
    <updated>2010-04-30T06:20:36Z</updated>

    <summary> 特集「FEATURE」に、「初夏の山科疏水、禅の道。 」を公開いたしました。是...</summary>
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        <![CDATA[ <p>特集「FEATURE」に、「初夏の山科疏水、禅の道。 」を公開いたしました。是非ご覧ください。</p>]]>
        
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    <title>初夏の山科疏水、禅の道。</title>
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    <published>2010-04-30T04:52:06Z</published>
    <updated>2010-06-08T03:34:44Z</updated>

    <summary>4月の桜や11月のモミジも素晴らしいですが、それにも増して素晴らしいのが、初夏の疏水。桜の元気な青葉やモミジの透き通るような若葉が、いっせいに芽吹き、運河の青さを一層鮮やかに彩ります。</summary>
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        <![CDATA[<div class="box clearfix">
<h4>南禅寺と安祥寺を結ぶ「禅の道」1　〜疏水蘊蓄いろいろ〜</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg01.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg01.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>今年は疏水開通120周年。片や奈良では遷都1300年を祝っていることから思えば、10分の一以下だが、それでも1と5分の1の世紀の時を超えて、毎秒8.35立方メートルの水を運び続けている。取水口は大津美帆ケ崎の琵琶湖沿岸、そこから小関越えの山の下を距離にして2.5km、一直線に抜けて藤尾へ入り、四ノ宮諸羽山の脇からトンネルを通って安朱、御陵と蛇行しながら流れ、日ノ岡のあたりで再びトンネルを二つくぐって、京都南禅寺までをつなぐ運河である。その工事は、明治23年完成当初の京都が威信をかけて挑んだ一大土木事業プロジェクトであった。疏水の用途は飲み水にとどまらなかった。周辺の農家に水が供給され、舟運が開通し、岡崎に新たに作られた当時世界で二番目の水力発電所が建設され、市内ではガス灯が電灯に替わり、やがて市電が行き交うこととなった。京都市民にとっては、教科書の楕円の中に凛々しく入った若干二十三歳の土木技師、田辺朔郎の写真とともに記憶する誇り高き歴史の1ページだ。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg02.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg02.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>しかし、観光で京都にお越しになる方は、疏水といえば、煉瓦で築かれた水路閣の上を流れる小さな水路や、「哲学の道」に沿う疏水を思い浮かべられるのではないだろうか。山科区民からすれば、大津の長いトンネルを抜けて岡崎に至るその間、山科を流れる疏水こそが、「運河」と言わしめるべき部分そのもの。『疏水』と紹介されて、『哲学の道』横の疏水が紹介されているガイドブックを見ると、なんとなく腹が立ってくる。筆者自身も以前、そんな文面をお手伝いしたこともあったが、「まったく、おかしな話だ。いつの日かリベンジを」と企てていたものである。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg03.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg03.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>大津の藤尾から安祥寺に至るまでの遊歩道は桜が多く、安祥寺から西向こうはモミジが多い。毎日散歩している方でも「なるほど」と合点がいくと思う。私も生まれたときからすぐそばに住みながら、あまりそういうふうに思ったことはなかった。この疏水蘊蓄は、山科に住む知る人ぞ知る疏水ツウ、御年八十「うん」歳の中西一彌さんからの受け売り。「en」ホームページのブログでは、120周年に合わせて発行した中西さん念願の、イラストマップ制作のため何度かご案内いただいた内容から、疏水に沿って詳しくご紹介している。山科の「運河」部分の散策に興味をお持ちいただいた方は、そちらもぜひ、合わせてご覧下さい。このあたりにお住まいの方々（筆者も）は、今後はとびきり素敵な『カナルフロント』住んでいる！と自負してもらってはいかがだろう。</p>
<div class="box">
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg04.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg04.jpg" width="650" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span>
</div>
</div>
[[SplitPage]]
<div class="box clearfix">
<h4>南禅寺と安祥寺「禅の道」2　〜禅の高僧山科疏水を歩く〜</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg05.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg05.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>山科疏水について桜とモミジの分布を明らかにした中西さんの情報も素敵だが、つい最近、四ノ宮諸羽山のすぐふもとにある臨済宗南禅寺派の徳林庵というお寺のご住職、政義さん（名字）がおっしゃったことは、疏水について驚愕の情報だと思い、それには深い「en」が横たわっているような気もするので、この場をかりてご紹介したいと思う。（要は筆者にとってはかなり大きな「超」のつく新発見なので、もったいぶっています）。</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg06.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg06.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>政義和尚は、もともと石の彫刻家で、かつて、全国の自治体から頼まれて大きな石彫を手掛けるほどの芸術家だった。南禅寺で開催された友人の展覧会で、ふとすれ違った禅僧の老師から「仏門に入りませんか」と誘われ、そのままその世界に飛び込んだ人である。その御陰で、旧東海道沿いの地蔵さんは、今日も毎朝お経をあげてもらえているのだから、「en」というのは本当になんともいえない不可思議だ。ここ数年、山科のまちおこしとして、平家琵琶の演奏会にご協力いただいたことでご懇意に預かり、話をする機会も増えた。政義さんは南禅寺まで、便利な地下鉄がある現代であっても、疏水を通って毘沙門堂から七福思案所を通る山道を抜けて歩いて通われている。禅の修業そのものは、山梨県の老師について今現在も進行中だが、遡ることその三世代前、師匠の師匠の、師匠くらいにあたる方に、原田祖岳（はらだそがく）という人物がいた。</p>
<p>原田祖岳は、禅宗では善きも悪しきにも名のあがるかなりの高僧だが、政義和尚がおっしゃるには「この御仁はいつも公案を考えながら疏水沿いを南禅寺まで歩いておられたそうですよ」という。彼の講話を弟子がまとめた本の418〜428ページにかけて『京都の修業時代　毒湛老師に参ず』の項にそのことが載っている。加藤晁堂和尚という原田祖岳の友人が、疏水沿いにある安祥寺の住職を勤めていたが、他の寺に移ることになったので、原田祖岳が代わりに寺に入った。そのときの思い出がかなり具体的に書かれているので、一部抜粋してご紹介しておく。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg07.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg07.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p><strong>『さて、その山科の安祥寺というのは、真言宗の寺で、元の安祥寺派の本山だったのが、没落して（といっても松山が九十九谷もある寺だったが）その頃の住職は曹洞宗でいうと、宗務庁の財務部長の役をしていて、いつも留守だし、その宗の坊さんを代理におくと、金がかかるので、他宗のわれわれが留守番というわけだったから、無償でおいて下さった。その代わりその寺ではいつも白い着物を着て、上品にしていてくれという約束で、草とりはもちろん、箒一本持つことも禁じられていた。もっとも寺男がいて、何もかもしてくれたから、わたしはただ寝とまりさえしていればよい誠に結構な寄宿先であった。<br />
こうしてわたしは山科から毎日南禅寺の毒湛老大師のもとに通って参禅した。あそこには琵琶湖から流れて来る疏水があって、その縁（ふち）の土手をずっと歩いて、雨の日も天気の日も、いつも合羽（かっぱ）をきて、かぶり笠をかぶって、雲水姿で通ったものである。四季の移り変わりの眺めなど美しいところであるが、絶えず公案工夫三昧で、黙々と歩いたわたしには、その美しい景色を眺めている余裕などは全然なかった。何度目かの見性はこの道中でのこと、疏水の流れを見た瞬間であった。』<br />
（出典　原書房発行　修証義講話　上　原田祖岳著作集 3　2005年12月14日　第一刷　著者・原田祖岳　編者・出口哲城）</strong></p>
<div class="box">
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg08.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg08.jpg" width="650" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span>
</div>
</div>
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<div class="box clearfix">
<h4>南禅寺と安祥寺「禅の道」3　〜西田と原田の因縁〜</h4>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg09.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg09.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-R" style="" /></span>
<p>ここまでご紹介して、もう皆さんお気付きのことと思う。この原田祖岳老師の話で終点となっている南禅寺から銀閣寺まで北へと延びている疏水沿いの道をなんと言ったか。こちらの道は、知名度も全国的、種明かしする必要もない。京都帝国大学教授であった哲学者の西田幾多郎が、いつも考えながら歩いた『哲学の道』だ。西田は1913（大正元）年から1928（大正15）年までの15年間、京都帝国大学の教授を務めた哲学者で、京都学派『西田哲学』を創始した。</p>
<p>原田祖岳が安祥寺に住み南禅寺へ通い始めたのは、それから10年程遡った頃のことで、宗乗研究生であった1901（明治34）年から1907（明治40）年。付け加えて言うと西田は、1870（明治3）年6月17日生まれ、原田は1871（明治4）年10月13日生まれというから、たった8ヶ月の差でまさに同時代の人だった。</p>
<br class="clear-brank" />
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg10.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg10.jpg" width="210" height="280" class="mt-image-none float-L" style="" /></span>
<p>ともに、禅宗の教えに精通していて、西田も原田もただひたすら、人が求めることのない答を探して頭脳をめぐらせ続けた。そして時折、疏水から心地よく吹き付ける風に乗って「ハッ」とする答を得たこともあったのだろう。『哲学の道』は、その水の流れを遡って、山科疏水へとつながり、まさに安祥寺から南禅寺の区間は『原田祖岳 禅の道』として存在していた。</p>
<p>そういえば筆者が若き日につまらないことで悩み、悶々としていたとき、「ハッ」と愚問転換できた場所も、昭和45年諸羽トンネルが完成するまで疏水が流れていた疏水公園辺りだった。初夏の疏水縁（そすいべり）を、足裏に響く落ち葉や砂利のきしみに心奪われながら、ただ無心に歩けば、なんだか悩めるものを解決に導く不思議な力が散在しているのは、どうも間違いないらしい。</p>
<p>いつの日か、山科疏水の諸羽神社から安祥寺までを『筆者の氏名　お悩み解決の道』などと呼ばれたら嬉しいななんて、いやはや失敬。</p>
<p class="right">（写真・文 小谷 昌代）</p>
<div class="box">
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><img alt="vol005_subimg11.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/feature/img/vol005_subimg11.jpg" width="650" height="320" class="mt-image-none" style="" /></span>
</div>
</div>]]>
        
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    <title>琵琶湖疏水に沿って。　 6. 小関越えへ（大津〜小関越え編）</title>
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    <published>2010-04-22T16:10:49Z</published>
    <updated>2010-04-30T06:18:17Z</updated>

    <summary> 足下深く地底には、運河の水流。琵琶湖疏水工事最大の難関、第一トンネルに思いを馳...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.en-kyoto.jp/blog/">
        <![CDATA[<img src="http://www.en-kyoto.jp/lib/img/cmn/bnr_120syunen.jpg" width="90" height="60" /><br />
<font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 24px;"><b>足下深く地底には、運河の水流。</b></span></font><div><font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 24px;"><b>琵琶湖疏水工事最大の難関、第一トンネルに思いを馳せて。</b></span></font></div><div><font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 24px;"><b><br /></b></span></font><div><div><font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 24px;"><b><span class="Apple-style-span" style="font-weight: normal;"><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="margin: 0px; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; display: inline;"><img alt="koseki1.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/blog/koseki1.jpg" class="mt-image-none" width="581" height="397" /></span><br /></span></b></span></font><div><font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 24px;"><b><br /></b></span></font><div><span class="Apple-style-span" style="font-family: 'century gothic',arial,helvetica,clean,'ヒラギノ角ゴ Pro W3',Meiryo,sans-serif; font-size: 12px; font-weight: bold;"><span class="Apple-style-span" style="line-height: 24px;">6</span></span><span class="Apple-style-span" style="font-family: 'century gothic',arial,helvetica,clean,'ヒラギノ角ゴ Pro W3',Meiryo,sans-serif; font-size: 12px; font-weight: bold; line-height: 14px;">　小関越えへ（大津〜小関越え編）</span></div><div><font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 14px;"><b><br /></b></span></font></div><div><font class="Apple-style-span" face="'century gothic', arial, helvetica, clean, 'ヒラギノ角ゴ Pro W3', Meiryo, sans-serif" size="3"><span class="Apple-style-span" style="font-size: 12px; line-height: 24px;"><b><span class="Apple-style-span" style="font-family: arial,helvetica,hirakakupro-w3,osaka,'ms pgothic',sans-serif; font-size: 13px; font-weight: normal; line-height: normal;"><div><div><div><span style="font-size: 12pt; font-family: 'ＭＳ 明朝'; color: black;"><span class="Apple-style-span" style="font-family: 'century gothic',arial,helvetica,clean,'ヒラギノ角ゴ Pro W3',Meiryo,sans-serif; font-size: 12px; color: rgb(51, 51, 51); line-height: 14px;"><span class="Apple-style-span" style="line-height: 24px;"><p class="MsoPlainText" style="margin: 0px 0px 0.75em; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal;">　　4月上旬、大津運河第一トンネル西口周辺は桜一色。トンネル入り口付近の真上の山一帯には三井寺の境内が広がっていて、関西屈指の桜の名所となっている。時間があれば、大津運河散策のついでに散策してみるのもいい。運河は鹿関橋を越えると徐々に深く掘り下げられ、明治のロマンを感じさせる洒落た鉄柵の合間から随分下の方に水の流れが見える。急斜面の草の土手に木立が茂り、頃合い良く日の光を透かしている。運河に沿った2本の道筋は、洞門の真上でコの字型結ばれ、右岸は三尾神社の参道へもつながっていて、左岸は小関越えへと続く山際の道筋になっている。小関越えは、東海道が主要街道となる平安時代以前に栄えた道。福井や越前など北陸方面と都をつなぐ由緒ある道筋で、古くから多くの旅人が行き交った。</p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="margin: 0px; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; display: inline;"><img alt="koseki2.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/blog/koseki2.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0px 20px 20px 0px;" width="242" height="348" /></span><p class="MsoPlainText" style="margin: 0px 0px 0.75em; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal;">　歩いて越えても30分ほどの小さな峠、登り口には小関天満宮がある。案内役の中西さんは「『山路来てなにやらゆかしすみれ草』と刻まれた芭蕉の句碑があるよ」と木陰の石を指差して教えてくれた。一休みに腰を降ろした石のきわにスミレを見つけて、ほっと心が安らいだのだろう、古道を歩くと何百年の時でさえ、ふと逆戻りしたかのような感覚に出会うことがある。芭蕉も異空間に漂うようなそんな旅ならではの感覚が好きだったに違いない。</p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="margin: 0px; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; display: inline;"><img alt="koseki3.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/blog/koseki3.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0px 0px 20px 20px;" width="271" height="369" /></span><p class="MsoPlainText" style="margin: 0px 0px 0.75em; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal;">　小関天満宮から等正寺と新光寺の間を通って峠ふもとの集落を行くと、やがて緑の深い峠らしい道を上る。山頂までは幅の広い舗装道路になっていて、広々として気持ちのよい道だ。時折、車が飛ばして通り過ぎることがあるので、気をつけたい。ゆるやかなカーブから峠へ向かって一直線になると、坂が少しずつきつくなってくる。途中、右側には三井寺へと続く山道への分かれ道があったが、知らなければ見過ごしてしまう。しんどいなあと思い始めた頃合いに、すぐ道は平坦となり、この峠のてっぺんに建つ喜一堂にたどり着く。道路工事のときに見つかったお地蔵様を集めて、平成元年に地元の方々がこしらえたお堂だそうだ。その向かい側には、山水が汲める場所がある。そこから、広い舗装の道を降りても藤尾へたどりつくが遠回り。車も通るし、琵琶湖疏水遺構散策と銘打つなら、左へと反れる小関越えの古道へぜひ。</p><p class="MsoPlainText" style="margin: 0px 0px 0.75em; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal;">　工事で最も難関だった第一トンネルは、大津から山科へとまっすぐに結んでいる。工事開始の明治23年当時には例をみない大工事で、全長約2.5kmのトンネルの途中に竪坑という巨大な竪穴を掘り、両端と中央部の3カ所から掘り進めた。人が乗り降りできるエレベーターのような木製の大掛かりな道具を使って、地中深くの現場とを結び、土砂や人足を運んだ。岡崎の水道記念館には、その様子が緻密に描かれた絵が展示されているので、機会があればぜひ見ておきたい。小関越えの古道を下ってきて、藤尾の集落に入る手前200メートルほどの左手に、竪坑が見下ろせる場所がある。夏場は葉が覆い茂り気付きにくいが、相当大きな赤煉瓦の円柱型建造物なので、注意していればすぐにそれとわかる。</p><p class="MsoPlainText" style="margin: 0px 0px 0.75em; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal;">　筆者が子どもの頃には途中に茶畑もあって、まだ平安時代からの古道の雰囲気が随分と残っていたが、現在は少し荒れた感じは否めず、中西さんも「せっかくの散策道なのだから、なんとか整備されればよいのに」と嘆いておられた。諦めきれず目を凝らし、荒れた茂みを探しながら歩いていると、見覚えのある、色濃いツヤのある肉厚の葉を発見。枯れたツタや違法投棄された粗大ゴミにまみれてはいたが、まだ確かに茶の木々は茂っていた。嬉しいような悲しいような。今年平成22年は、疏水開設120周年。これを期にたくさんの人がこの道を訪れるようになり、懐かしい気分の味わえる情緒ある散策道として、蘇ってほしいものだ。</p><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="margin: 0px; border-width: 0px; padding: 0px; font-size: 1em; font-weight: normal; display: inline;"><img alt="koseki4.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/blog/koseki4.jpg" class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0px 20px 20px 0px;" width="266" height="354" /><img alt="koseki5.jpg" src="http://www.en-kyoto.jp/blog/koseki5.jpg" class="mt-image-right" style="float: right; margin: 0pt 0pt 20px 20px;" width="305" height="354" /></span></span></span></span></div></div></div></span></b></span></font></div></div></div></div></div> ]]>
        
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